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The beginning of new challenge

脳死

使えない社員は社員ではない。
使えない人間は人間ではない。
使えない頭は、もはや生きているとは言えない。
手足がなければ生きているとは言えないか?
手足が動かなければ生きているとは言えないか?
心臓だけ動いている場合は生きているとは言えないのか?
私とは誰か?
私とは肉体なのか?

これらの問いを考えると、私とは肉体ではないことが明らかです。
理性が何かを考え、感情が沸き起こり、それを観察しているのが私です。

ヘレンケラーは、見ることも、聞くことも喋ることもできませんでした。
もし五体不満足な人が、ヘレンケラーのようになれば、それは死んでいると言えるのでしょうか?
目が見えず、何も聞こえず、何も喋れず、しかも手も足も動かせない。
全く意思表示ができない人です。
それは死んだも同然と言われるかもしれませんが、死んではいないのです。

もし私がそうなったとしたら、「私はここにいます」と叫ぶでしょう。心の中で。
もう生きている意味が無いと、自分自身が思った時、私はその体から去り、心臓がとまるのです。

脳死とは何かを考える時、私はこのような結論に達しました。

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2 コメント

  1. shingo 2021年3月18日 — 投稿者

    えらい体験をされているのですね。
    それじゃあ、臓器提供意志表示カードがその時見つかってれば、今頃は・・・!
    やっぱり脳死は人の死とは言いたくないですね。

  2. 英都萬 2021年3月16日

    人の死と生命体の死は別に扱われています。植物状態は生命体としては生きていますが、人の死と見なされます。確かに、自分以外とのコミュニケーション手段が全て失われると死と見なされるのでしょう。脳波まで測定して生死の判断はしないでしょうから。瞳孔の反応程度の確認のみでしょう。以前、交通事故で頭蓋骨骨折で硬膜下出血をおこし意識不明の時に、私の財布のカード類は全て取り出されランダムに戻されていました。穿った見方ですが、臓器提供意思カードを探したのではないかと思いました。臓器提供意思ありだと治療のレベルが違ったりすることはないと思いますが・・・

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