「所有」が正当化されている社会では、頑張っている人、努力する人が賞賛され、時に尊敬されます。
そういう人は、頑張らない人とくらべ、多くを所有するようになるからです。
こういう社会での教育は、多くを「所有(得る)」するために行われます。
でも、表向きは違うかも知れませんね。
それが将来役立つからだと。
そして、学んだ多くの知識は、所有を増やすために使われます。
「人々の役にたっている」という思いで働いていても、所有という概念からは離れられずにいます。
考えてみて下さい。
全員がより多くを所有しようとすれば、何が起こるのか?
競争が起こります。(既に、競争社会ですが)
その競争に負けた人はどうなるのでしょうか?
それでも「所有は人の役に立っていると言えるのでしょうか?」
役にたっている一方で、敗者を生みます。
あなたは、所有を増やすために、一生を過ごし、人生を終えていくのですか?
そのために生まれてきたと思っているのでしょうか?
生まれ変わっても「所有するものを増やすため」に人生を費やしたいでしょうか?
生まれ変わる前回の人生、そのまた前回の人生、あなたはずっとそうしてきたと思いませんか?
「所有」その事が、幸せなのではないはずです。
幸せを感じるには、ひとりではできないのです。
誰かがいるから感じることができるのです。
物や考え方、喜びなど、「共有する」事が幸せだと思いませんか?
それは「分かち合い」です。
これからは、身近なところから、出来るところからでも、「分かち合う」ことを行動で示す人が増えることを願います。
shingo 2021年2月12日 — 投稿者
幼少時代の家庭や地域の教育なのかな?
自然と分かち合えるその人は、本当に幸せですね。
英都萬 2021年2月12日
同僚で社会主義国出身者は、ぎすぎすしたところがなく大らかです。決して高給ではなく、実家に仕送りをしなから、自分では倹約していても、家に招いてご馳走したりします。分かち合う精神は、恐らく物心付く前からの教育も関係しているのでしょう。