まだごくごく幼い頃、
おもちゃを与えられ、おもちゃそのものを純粋に楽しんでいた。
そのおもちゃが自分のものだという概念はなかった。
そこには「楽しいかどうか」があるだけ。
だから、誰かが手を伸ばせば、そのおもちゃをサッと差し出す。
なんの抵抗も無しに。
ところが大人は違う。
「これは誰々ちゃんのもの」
「これはあなたに買ってあげたもの」と区別をする。
誰かのおもちゃで勝手に遊んでいると、「人のものを取ってはダメ」としつけられる。
こうやって、所有という考え方が身についていく。
それが確固たる価値観に形成されていきます。
この価値観は、やがて大きくなっていくのです。
家族のもの、会社のもの、国のものという風に。
これで何が起こるかというと、所有に不足を感じるものが、他人のものを奪おうとします。
お互いそうならないように、約束や法律を作り規制していくようになります。
しかし、時として規制は破られます。
不公平感や不足を感じている人がいるからです。
すると次に、それを罰しようとします。
懲罰に関する取り決めができ、執行されます。
人を拘束したり、暴力や武力行使が行われます。
人はそれを正義と言います。
「正しい行い」だと。
「取り決め(法律)」のもとでは、暴力や武力行使は、正当化されます。
今や軍事力は地球規模となり、数万の核兵器によって、すべての生命が危機にさらされています。
倫理レベルが向上していない社会では、科学技術の進歩は「刃(やいば)」となります。
争いの無い世の中にしようと思うのであれば、幼児の頃に「所有」という概念を教える事は、役に立ちません。
大人たちが所有という考えを示さなければ良いだけなのです。
「分かち合い」という感覚は、生まれながらに持っているものなのですから。
shingo 2021年2月10日 — 投稿者
英都萬さん、
遠い将来はわかりませんが、2050年までに、地球の気候がおかしくなり、今までみたいに「共産主義VS資本主義」と言ってられなくなるのでは、と危惧します。
地球規模で持続可能な、経済システムの構築が生まれてくるのではないかと考えます。
shingo 2021年2月9日 — 投稿者
我々は幸せの基準を決める際、「物の所有」に偏っているのだと思います。
日本式共産主義が良いのかどうかわかりませんが、いずれにせよ、個々人の意識を変えることが先決だと思います。
英都萬 2021年2月9日
遠い将来に共産主義が席巻しているのか、資本主義が席巻しているのか判りませんが、確かに一部所有を認めない共産主義にも良いところがあります。労働意欲を失わず、かつ皆が平等に幸せになる新しい仕組みが出てくるかもしれませんね。よく批判にさらされますが、談合して皆が損をしないようにする仕組みはある意味日本式資本主義または日本式共産主義とでも言える折衷案なのではないでしょうか。当然高値受注にならないように妥当な上下のリミット値を発注者側が算定する能力が担保されていることが条件になりますが。