アーリタblog                 新たなる挑戦の始まり

The beginning of new challenge

自分の本質

自分はどういう人間なのか?

この問いに何の意味があるのでしょうか?


これは、自分の本質に迫る上で役立ちます。

人はこれまで経験したこと、自分が陥った状況、親や社会から教わったこと、社会的な倫理観や常識、そう言った数々の体験の積み重ねが、今の自分の意識を作り上げています。

それが “私” というものです。

しかし、そうやって築き上げられた自己意識は、自分の本質とは関係ありません。
自分が執着している考え方や物事は、自分の個性ではありません。

それは、特定の限られた経験や環境に基づく知識であり価値観に過ぎません。

本質的に自分とは無関係のものです。

表面的に貼られたレッテルを見ているに過ぎません。

もし、別の知識や価値観を身につければ、今とは違ったレッテルが貼られます。
それを自分だと意識しますが、やはり本質的に自分ではありません。本質的な自分が変わることはありません。

本質的な自分が違った体験をしただけなのです。
それによって、新しい知識と価値観を持つようになったのです。

この認識は、自分を勇気づけてくれます。

自分の可能性は、知識と価値観を変えることで、どんな人間にもなれると言うことです。

それには、自分がなりたいと思う人間に必要な知識と経験を積むことです。
つまり、行動や習慣を変えるのです。

行動や習慣を変えるには、思考を変える必要があります。
そのために最初にすることは
なりたい自分をイメージすることです。

ミュージシャンになるには、そのイメージを作った上で、音楽の知識と経験、つまり練習を積むことで、近づいていきます。

尊敬される人になりたければ、どういう人が尊敬されるのかをイメージし、日々そういう振る舞いをすることです。

自分に新しいレッテルを貼るには、これまでの価値観を手放していかなければなりません。

実際には、新しいものに書き換えていく事になります。

もちろん、今のままでいいのなら、新しい知識や経験は必要ありません。
どちらにせよ、自分の本質が変わることは無いのですから。

もう一つつけ加えておくと、知識や価値観・経験と言うのは、自分の意識のみならず、体にも浸透していってます。

例えば、
意識的な “好き嫌い” だけではなく、体も影響され反応しているのです。
それはほとんど無意識的に反応しています。

最後に、
自分にどんなレッテルを貼るのかは自分の自由ですし、わざわざ新たなレッテルを貼る必要もありません。
全くの自由です。

「新たな知識を身に付け、新たな経験を積むのは面倒だ」と思えば、それでもいいのです。
自分がそういう人生を送りたいのですから。

繰り返しますが、
自分にどんなレッテルを貼ろうとも、本質的に変わる事はなく、レッテル貼りを楽しむだけだと言うことです。
同じレッテルをずっと楽しむのも良し、好きなだけ貼り変えていく人生もまた良いと思います。

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2 コメント

  1. shingo 2021年10月15日 — 投稿者

    凡才という自己評価であれば、その認識に基づいた新たなレッテルを探して貼るのも良いかも知れませんね。

  2. 英都萬 2021年10月15日

    学生時代に所属していた研究室の教授は、退任後に東京芸術大学に生徒として入学してチェロを習ったそうです。これくらい多才な人間であれば新しいレッテルを取得できても、若者ならいざ知らず、凡才の私は今のレッテルが僥倖であり望外です。(藤井聡太三冠からパクリました)

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